聞中浄復の遺品

鶴翁師は天保六年(1835)九月十三日に邦福寺で、聞中禅師の七回忌法要を催しました。
その茶会に売茶翁(二品)、大典禅師(一品)、聞中禅師(七品)の遺品が陳列されました。その中の聞中禅師の「水屋坪」は形見分けの品であると思われます。
雑誌「三重の古文化」に聞中禅師の経歴と形見分けの明細が記載されています。これは聞中禅師の妹の孫が書き記したものです。その中に「大坂新右衛門水鉢とかえる(緞子表具聞中筆茶の事認め申し候かけ物)」と記載されています。このことから聞中禅師の掛け軸と水鉢と変えたと思われます。
そして、この水鉢と七回忌法要の水屋坪は同等のものと思われます。

伊藤若冲と売茶翁と聞中浄復と

今年は若冲の生誕三百年にあたり、メディアがいっせいに取り上げている。しかし、若冲の晩年の足跡については詳らかではない。

また、花月菴鶴翁師が崇敬する売茶翁、聞中浄復との親交は、若冲に重要な影響をあたえたことはあまり知られてはいない。

 

1.伊藤若冲

正徳六年(1716)二月、京都の青物問屋の長男として生まれた。四十才の時、家業を次弟に譲り、絵画に専念する。宝暦九年(1759)四十四才、鹿苑寺(金閣寺)の大書院の襖絵、五十面を寄進する。五十才の時、十年かけて制作した「動植綵絵」二十四幅と「釈迦三尊像」を相国寺に寄進し、両親、弟、若冲自身の永代供養の契約をした。

 

2.高遊外売茶翁と

若冲と売茶翁との結びつきは相国寺の大典顕常の紹介と思われる。三十二才の若冲は売茶翁に注子(水差し)を贈り、大典がこの注子に「「大盈若冲」と記している。若冲は売茶翁の茶売り生活を支える協力者の一人であった。

若冲は「売茶翁像」を数幅描き残している。若冲が心血をそそいで画いた「動植綵絵」に、売茶翁は「丹青活手妙通神」の一行書を書きあたえている。

ちなみにこの「動植綵絵」と売茶翁の一行書は、明治初年に明治天皇に寄贈された。相国寺は政府から財政補助金を得た。

 

3.聞中浄復と

若冲と聞中浄復との結びつきも大典顕常による。聞中は大典の直弟子である。安永2年(1773)、五十七才の若冲は聞中浄復の紹介で、黄檗山萬福寺二十代住持・伯詢照浩と会っている。伯詢は若冲に道号「革叟」を授け、自らの僧衣を贈った。

若冲は家業の青物問屋の火災により京都・伏見の黄檗山萬福寺の末寺・石峰寺の門前に居を構えた。天明8年(1788)一月二十八日、京都を代表する儒学者である皆川淇園、画家の円山応挙らが石峰寺の若冲制作の五百羅漢を見物にきた。彼らは釈若冲と記している。つまり彼らは若冲を釈迦の弟子である出家僧とみていた。若冲は石峰寺に石像の五百羅漢、観音堂の天井画、石峰寺図を寄進している。

 

4.相国寺との決別

寛政三年、七十五才(1791)になった若冲は、相国寺との永代供養の契約を解消した。相国寺の「参暇日記」によれば、解消の事由は天明8年(1788)におこった家業の青物問屋の火災による困窮のためと記載されている。しかし若冲のその後の行動は、相国寺との絶交を決断させる理由があったと思われる。

黄檗山萬福寺の機関誌「黄檗文華」によれば、前年に若冲が大病を患った時の相国寺の対応にあったという。つまり士農工商による商人扱いをしたのではないか。

 

5.石峰寺に埋葬

石峰寺の過去帳には「歳八十八・寛政十二庚申・斗米翁若冲居士」。没年は八十五才であるが、米寿に通ずる八十八をこの年には款記している。若冲は「居士」を記している。つまり在家者として葬られた。若冲は売茶翁と同じく非僧非俗こそ最上の生き方と%e7%9b%b8%e5%9b%bd%e5%af%ba%e8%8b%a5%e5%86%b2%e5%a2%93300-200したのであろう。

若冲の葬儀は石峰寺でおこなわれ、石峰寺に埋葬した。遺族は檀家制度のもとで、伊藤家の菩提寺・宝蔵寺(浄土宗西山深草派)に配慮して、葬儀に宝蔵寺住持の参列を要請した。また相国寺には遺髪を埋葬した。

『清風流烹茶諸式詳解』

  「『清風流烹茶諸式詳解』             
                                 茶書写本    六冊
                          年代不詳(天保年間か)田中鶴翁
  宗匠派の祖、田中鶴翁には二、三の自筆本があるが、
    中で茶書として重要なもの。
  抹茶に模した手前の方式化と、茶事や好みの棚物等を
    記し、現在の煎茶式の成立と展開を芸態論的にとらえ
    るのに貴重な資料である」
                                   現代煎茶道事典(主婦の友社)
 

鶴翁が十六日、二十五日の茶会を通して、煎茶の点前を考案しまとめたものです。
天保三年(1832)に徳川将軍に茶具一揃いと清玩規を献上したという記録があります。
また、天保六年(1835)聞中禅師七回忌法要の「茶器録」に道具揃えについて見ることが出来ます。これは現在の花月菴流の煎茶式の道具揃えとほぼ同一です。

二十五日茶会

この二十五日茶会は十六日茶会よりも先にはじめられたと思います。
 
文化10年(1813)に蒹葭堂巽斎13回忌が営まれました。
参列者についての記録は見当たりませんが、蒹葭堂と親交のあった篠崎三島、 小竹、森川竹窓と義弟の八木巽處、岡田米山人、半江などが参列したと思われます。
 
また、蒹葭堂と長年親交のあった聞中浄復禅師が、この頃京都に定住したので、石居は聞中を招いたのではないでしょうか。
 
この様な状況から文化10年頃から、二十五日茶会がはじまったと思われます。
鶴翁はこの二十五日茶会を通して、売茶翁の茶風を習得したのではないでしょうか。