『清風流烹茶諸式詳解』

  「『清風流烹茶諸式詳解』             
                                 茶書写本    六冊
                          年代不詳(天保年間か)田中鶴翁
  宗匠派の祖、田中鶴翁には二、三の自筆本があるが、
    中で茶書として重要なもの。
  抹茶に模した手前の方式化と、茶事や好みの棚物等を
    記し、現在の煎茶式の成立と展開を芸態論的にとらえ
    るのに貴重な資料である」
                                   現代煎茶道事典(主婦の友社)
 

鶴翁が十六日、二十五日の茶会を通して、煎茶の点前を考案しまとめたものです。
天保三年(1832)に徳川将軍に茶具一揃いと清玩規を献上したという記録があります。
また、天保六年(1835)聞中禅師七回忌法要の「茶器録」に道具揃えについて見ることが出来ます。これは現在の花月菴流の煎茶式の道具揃えとほぼ同一です。

二十五日茶会

この二十五日茶会は十六日茶会よりも先にはじめられたと思います。
 
文化10年(1813)に蒹葭堂巽斎13回忌が営まれました。
参列者についての記録は見当たりませんが、蒹葭堂と親交のあった篠崎三島、 小竹、森川竹窓と義弟の八木巽處、岡田米山人、半江などが参列したと思われます。
 
また、蒹葭堂と長年親交のあった聞中浄復禅師が、この頃京都に定住したので、石居は聞中を招いたのではないでしょうか。
 
この様な状況から文化10年頃から、二十五日茶会がはじまったと思われます。
鶴翁はこの二十五日茶会を通して、売茶翁の茶風を習得したのではないでしょうか。
 

十六日茶会

「月毎の十六日は翁の為に茶を煎し人々に喫せしむる事年久し」と文政七年(1824)に鶴翁が著わした「茶売り詞」に記載がありますが、いつ頃からこの茶会がはじまったのでしょうか。

文政元年(1818)に篠崎小竹が子息を伴って花月菴を訪問した記載が「頼山陽全伝」にあります。また、小竹夫人の佐智子は「煎茶大人集」にも記載されています。
これらのことから、文政元年頃から十六日茶会がはじまったと推測されます。
そして、この十六日茶会が文政七年の松風清社の設立につながっていきます。
ちなみに、鶴翁は後世に高弟の生白庵(杉村又吉)が独立するにあたり、「松風起社」を授けています。
 

この十六日茶会では、握飯に煮しめを添えて出し、煎茶を出す折には菓子をぜんに乗せて出していたことが、畑銀鶏の「銀鶏雑記」に記載されています。 

蓮月既望煎茶式

蓮月既望煎茶式は鶴翁が考案しました。

天保六年(1835)江戸から来た大里浩庵(有年)が「浪華煎茶大人集」を著わし、その中で蓮月既望煎茶式を紹介しています。

10.浪華煎茶大人集10

花月菴翁 姓は田中 茶名は毛孔と呼べり。

  売茶翁より煎茶の脈絡をひきて三代に至れり。

  高翁が手馴れし茶道具をつたへ、

  その外、隠元禅師明朝より持来りし煎茶の古器を蔵せり。

  又、翁が死生の日十六日なれば、蓮月既望煎茶を施せり。

  又、三月六日陸羽忌と称して新茶を手製し供する事、花翁より起れり。

  浪速の宗匠なり。俗称新右衛門と云て、九之助橋浜手に居宅あり。」

 

蓮月とは七月、既望とは十六日という意味で売茶翁の命日にあたります。

鶴翁がこの蓮月既望煎茶式をいつ頃考案したかは定かではありません。

ただし、文政七年(1824)鶴翁は「茶売詞」を著わし、そのなかで結社を呼び掛けています。

この時期までに鶴翁は蓮月既望煎茶式を考案したことが想定できます。

 

蓮月既望煎茶式の内容は、天保六年(1835)聞中禅師七回忌法要の「茶器録」に見ることが出来ます。

これは現在の花月菴流の煎茶式の道具立てとほぼ同一です。

倹徳

桧垣真種は「浪華風流繁昌記」の中で、「字倹徳花月菴鶴翁ト号ス 又松風清社毛孔 三種亭其行等ノ号有」と記載しています。

これは「倹徳」および「花月菴鶴翁」が初めて登場する記録です。

したがって、天保九年(1838)四月に一条忠香公より「鶴舞千年樹」の染筆を賜わった以降の記録と推定できます。

また、鶴翁師は在世中の大半は「毛孔」「素徳」を用いていましたが、晩年に「倹徳」を用いていたことがうかがえます。

「倹徳」の由来は陸羽の「茶経」からです。「茶経」の「五之煮」で「茶の性は倹」、「一之源」で「茶は行い精れ倹の徳のある人が飲むのに最もふさわしい」と言っています。