聞中浄復の遺品

鶴翁師は天保六年(1835)九月十三日に邦福寺で、聞中禅師の七回忌法要を催しました。
その茶会に売茶翁(二品)、大典禅師(一品)、聞中禅師(七品)の遺品が陳列されました。その中の聞中禅師の「水屋坪」は形見分けの品であると思われます。
雑誌「三重の古文化」に聞中禅師の経歴と形見分けの明細が記載されています。これは聞中禅師の妹の孫が書き記したものです。その中に「大坂新右衛門水鉢とかえる(緞子表具聞中筆茶の事認め申し候かけ物)」と記載されています。このことから聞中禅師の掛け軸と水鉢と変えたと思われます。
そして、この水鉢と七回忌法要の水屋坪は同等のものと思われます。

求道の旅人 聞中浄復 3

聞中は伊藤若冲の書雁を学び、紙一枚ずつ寫すことを日課としました。

そして、そのことを大典に許しを請いました。

大典は手紙で答えました。

「吾人佛徒には重要な一大事がある、それが為には爪を剪るに遑もないはずである。文学の如きも固より本務ではないが、道を資するため、性の近き所、才の能くする所を以て、緒餘の之を修むに過ぎぬ、その他の芸術は、法道に於いて何の所益がある、父母が汝に出家を許し、師長が教誡して汝を導き、檀越が汝に衣盂の資を供給する等の本意は那邊に在るか、宜しく考慮せよ、余の許不許の関する譯ではない… 」

求道の旅人 聞中浄復 2

中浄復が大典顕常に師事したのは、宝暦八年(1758)二十歳の時でした。

その翌年、大典の第一詩集「昨非集」に跋文を書いています。

この詩集は大坂の木村兼葭堂が版行しました。大典は後年、聞中について次のように記しています。

「・・・余少きより唐詩の好あり、我と好を同ふして、能く之を得る者は其れ聞中か、聞中の詩に於ける、出すに唐を以てせざるなく、亦た唐たらざるを屑しとせず・・・」(『小雲雲稿』の十「題聞中詩稿後」)

売茶翁の仏法

心に欲心なければ、身は酒屋、魚屋はたまた遊郭、芝居にあろうが、そこがその人の寺院である。自分はそのように寺院というものを大きく考えている。「対客言志」より