幕府の酒造統制 4

天保年間の減造令
 
「天保の大飢饉による幕府の減造令は天保元年(1830)、三分の一造りからはじまりました。四、五年も三分の一造り、七年から十年まで三分の一造り、十一年は二分の一造り、十二、十三年は三分の二造りである」(柚木重三「灘酒経済史研究」)。
 
十年間にわたる減造令によって、多くの酒造家が廃業、休業においこまれました。その中で田中屋が経営の危機を乗り切った要因は新右衛門(鶴翁)の洞察力と決断によります。それは勝手造令によって酒造株を持たない酒造家が出現し、酒造株が有名無実化した中で、新右衛門(鶴翁)は酒造株を3,000石高に増株しました。その結果、天保年間の減造令のうち、最悪の二分の一造り令の場合でも、従前の田中屋酒造株の1,250石高以上を醸造することができました(「西宮、四井家文書」)。