花月菴鶴斎

鶴翁が「鶴斎」の号を名乗っていたことが、「梅䚡日記」に記載されています。

「九月一日、朝の内、久太郎、後藤、田中屋(花月菴鶴斎)へ行」

梅颸は頼山陽の母の雅号です。久太郎は頼山陽、後藤は頼山陽の大坂の門弟、後藤松陰です。頼山陽は文政七年(一八二四)九月一日に再度花月菴を訪ねています。最初の花月菴訪問は、文政七年四月二十三日(六月二十四日説、「頼山陽全傳」)篠崎小竹と同行しています。

頼山陽は花月菴のもてなしの返礼として、「赤関竹枝」と題した七絶を送っています。

鶴翁が「鶴斎」の号を名乗った理由は定かではありませんが、当時次のような歌を詠んでいます。

年のはしめに丹頂の鶴の羽の僕が懐に入りしは、いかなるさちにかとささろめでたきこの明方に、千とせの壽をも受得し心地してうれしさのあまり

朝戸出につるの毛衣身に添ひて

千代経ん敷の初日影かや

ちなみに、頼山陽は江戸時代後期の漢詩人、歴史家です。「日本外史」を著わしたことで有名です。