花月菴鶴翁ノートについて

このノートは流儀煎茶の創始者である花月菴鶴翁の研究です。はじめに鶴翁を取り巻く二つの環境を検証してみました。その一つは鶴翁の生業が酒造業であったことです。鶴翁の生業である酒造業が煎茶人鶴翁にどのような影響を与えたのか、煎茶人鶴翁が酒造家田中新右衛門にどのような影響を与えたのかを検証してみました。もう一つは鶴翁が生涯住んでいた大坂が煎茶の集散地であったことです。大坂が江戸時代初期から諸国産煎茶の集散地であったことが、煎茶が町人の一般的な飲み物として定着していたなか、流儀煎茶が成立する起因であったことを検証してみました。

鶴翁の生涯は江戸時代の天明二年(1782)から嘉永元年(1848)までの六十七年間です。その足跡をたどってみると、三つに大別できます。

第一期は少年時代で、天明年間から寛政年間(1781~1800)です。この時期は天明の大飢饉で、家業の酒造業は、幕府の十年間にわたる減造令で、大変苦難な経営が続きました。鶴翁は少年時代を回想し「世々酒を醸すを業とし、暇なきまま総て嗜事なし、されど茶を好むの癖あり」と記述しています。鶴翁の喫茶する環境は家族や隣家との交流でした。隣家は女医の三宅文昌宅で、文昌の叔母が売茶翁の弟子である小祇林庵の観掌尼でした。  

第二期は十六才で家業を受け継いでから、五十才で経営を引退するまでです。この期間は文化文政年間(1804~1829)で、酒造業は幕府の勝手造り令の期間でした。経営の発展期であり、また同時に急速に躍進してきた灘などの在郷型酒造業との競合、対立の時期でもありました。文化・文政年間は大衆文化の時代といわれているように、庶民が茶の湯、生花、囲碁、将棋、俳諧など多種多様な習い事をおこなうようになりました。

鶴翁は聞中禅師に師事し、陸羽、廬仝、売茶翁の喫茶の精神的な意義を学びました。木村兼葭堂にかかわった人々や友人たちと十六日月例茶会をひらきました。十六日は売茶翁の命日にあたります。また鶴翁は茶号を「毛孔」と名乗り、「清風流烹茶諸式」を著し、「蓮月既望煎茶式」を考案しました。そして文政七年、「松風清社」をおこし、浪華の職人や婦女子たちばかりでなく、諸国の門人も多く集まりました。  

第三期は五十才から六十七才の晩年です。とくに天保の大飢饉は乱れた秩序とすさんだ世相の時期でした。酒造業は存亡をかけた二つの問題をかかえていました。その一つは幕府の約十年間にわたる減造令でした。鶴翁の田中屋は文化元年に酒造株を3,000石高に増株していたことによって経営危機を乗り越えました。もう一つの問題は江戸向け販売でした。江戸酒問屋は地方の酒造業を系列化し、支配下に組み入れる策動として、売掛金の未払いがおきました。鶴翁が天保三年に江戸郊外の綾瀬川で茶会を催したことは、酒造業仲間と江戸酒問屋の対立が背景にありました。また一条忠香公はじめ公家諸公、諸藩主に招かれて茶を献じました。

このノートでは、鶴翁の足跡をたどることで、茶風、茶法を検証してみました。

なお「花月菴鶴翁ノート」の本文は出来うる限り要約し、詳細は「茶話清談」に投稿というかたちで掲載をしてまいります。

山崎 聖智