伊藤若冲と売茶翁と聞中浄復と

今年は若冲の生誕三百年にあたり、メディアがいっせいに取り上げている。しかし、若冲の晩年の足跡については詳らかではない。

また、花月菴鶴翁師が崇敬する売茶翁、聞中浄復との親交は、若冲に重要な影響をあたえたことはあまり知られてはいない。

 

1.伊藤若冲

正徳六年(1716)二月、京都の青物問屋の長男として生まれた。四十才の時、家業を次弟に譲り、絵画に専念する。宝暦九年(1759)四十四才、鹿苑寺(金閣寺)の大書院の襖絵、五十面を寄進する。五十才の時、十年かけて制作した「動植綵絵」二十四幅と「釈迦三尊像」を相国寺に寄進し、両親、弟、若冲自身の永代供養の契約をした。

 

2.高遊外売茶翁と

若冲と売茶翁との結びつきは相国寺の大典顕常の紹介と思われる。三十二才の若冲は売茶翁に注子(水差し)を贈り、大典がこの注子に「「大盈若冲」と記している。若冲は売茶翁の茶売り生活を支える協力者の一人であった。

若冲は「売茶翁像」を数幅描き残している。若冲が心血をそそいで画いた「動植綵絵」に、売茶翁は「丹青活手妙通神」の一行書を書きあたえている。

ちなみにこの「動植綵絵」と売茶翁の一行書は、明治初年に明治天皇に寄贈された。相国寺は政府から財政補助金を得た。

 

3.聞中浄復と

若冲と聞中浄復との結びつきも大典顕常による。聞中は大典の直弟子である。安永2年(1773)、五十七才の若冲は聞中浄復の紹介で、黄檗山萬福寺二十代住持・伯詢照浩と会っている。伯詢は若冲に道号「革叟」を授け、自らの僧衣を贈った。

若冲は家業の青物問屋の火災により京都・伏見の黄檗山萬福寺の末寺・石峰寺の門前に居を構えた。天明8年(1788)一月二十八日、京都を代表する儒学者である皆川淇園、画家の円山応挙らが石峰寺の若冲制作の五百羅漢を見物にきた。彼らは釈若冲と記している。つまり彼らは若冲を釈迦の弟子である出家僧とみていた。若冲は石峰寺に石像の五百羅漢、観音堂の天井画、石峰寺図を寄進している。

 

4.相国寺との決別

寛政三年、七十五才(1791)になった若冲は、相国寺との永代供養の契約を解消した。相国寺の「参暇日記」によれば、解消の事由は天明8年(1788)におこった家業の青物問屋の火災による困窮のためと記載されている。しかし若冲のその後の行動は、相国寺との絶交を決断させる理由があったと思われる。

黄檗山萬福寺の機関誌「黄檗文華」によれば、前年に若冲が大病を患った時の相国寺の対応にあったという。つまり士農工商による商人扱いをしたのではないか。

 

5.石峰寺に埋葬

石峰寺の過去帳には「歳八十八・寛政十二庚申・斗米翁若冲居士」。没年は八十五才であるが、米寿に通ずる八十八をこの年には款記している。若冲は「居士」を記している。つまり在家者として葬られた。若冲は売茶翁と同じく非僧非俗こそ最上の生き方と%e7%9b%b8%e5%9b%bd%e5%af%ba%e8%8b%a5%e5%86%b2%e5%a2%93300-200したのであろう。

若冲の葬儀は石峰寺でおこなわれ、石峰寺に埋葬した。遺族は檀家制度のもとで、伊藤家の菩提寺・宝蔵寺(浄土宗西山深草派)に配慮して、葬儀に宝蔵寺住持の参列を要請した。また相国寺には遺髪を埋葬した。

煎茶の普及2

寛文末年から延宝年間はじめ(1675年前後)の頃、河内(大阪府)の庄屋が日記で煎茶の普及を次のように伝えています。

「近年、町でも村でも昼も夜もなく大変な流行をみせている「せんじ茶」は、寛永の末、正保の頃(1640~46)まではほとんどなかった。いつも抹茶を用いていた」。
 
煎茶の大坂の入荷量は正徳四年(1714)、一四七万八千斤、銀1,460貫にのぼりました。明治初期の大坂入荷量が約四〇〇万斤ですから、当時の煎茶の消費量がうかがえます。
元文三年(1738)、永谷宗円が蒸し製煎茶を考案し、全国で生産されるようになりました。
鶴翁が生まれた天明二年(1782)、大坂では問屋株が五十軒、仲買株五十軒、小売株(葉茶屋)が七百軒あり、庶民の家庭で日常的に煎茶が飲まれ、また町人の社交的な手段として茶会が盛んに開かれていました(「大阪府茶業史」)。
 
 

 

煎茶の普及1

 

徳川幕府の成立後は商品貨幣経済が急速に進展するようになりました。
米をはじめ諸国の産品が大坂に集められて換金され、その商品は江戸や各地に売りさばかれていきました。
天下の台所といわれる大坂には早くから葉茶を扱う煎茶問屋が成立していました。すでに延宝七年(1679)には諸国別の煎茶問屋が十五軒ありました。伊賀が二軒、丹波二軒、宇治田原二軒、下市四軒、日向四軒、肥後一軒です。このことは茶が寺院生産から農村生産に移り、農民は租税として物納し、藩が商品として市場にだしたことを意味します。
特に注目すべきことは九州の日向茶や肥後茶の青柳式の釜炒り茶が大坂に移入され、商品として出されていたことです。