花月菴鶴翁の洞察力

戎鯛(えびすたい)のこと

花月菴鶴翁生誕230年記念(2012年)の展覧席で「戎鯛」の看板に出会いました。内容を読み解くことで鶴翁の洞察力と決断力に驚嘆いたしました。ここでは「戎鯛」の買い取りに新右衛門の洞察力と決断力がどのように発揮されたかを検証したいと思います。

花月菴鶴翁こと田中新右衛門の生業は酒造業田中屋です。田中屋の銘柄は「浪華清水」「菊之清水」「鶴」「戎鯛」です。文政六年(1823)の「続浪華郷友録」によれば、銘柄はかつて「浪華清水」であったが、以後は「菊之清水」にしたことが記述されています。また、「鶴」については文政七年(1824)、花月菴を訪れた頼山陽が次のように記述しています。「余が酒戸(量)の進むこと、この酒(鶴)より始まる」(「頼山陽全傳」)。「戎鯛」は文化元年(1804)に西宮の真宣屋喜平次から1750石株を買い取った銘柄です。「戎鯛」は田中屋の経営基盤を強固にしたのみならず、流儀煎茶の始祖・花月菴鶴翁の登場に多大な影響をあたえました。

(1)幕府の酒造統制
最初に江戸時代の酒造業について述べます。江戸時代は米を中心とした経済でした。そのため米を主原料とする酒造業は米価調整の要になっていました。幕府は不作の年には減造令を、豊作の年には勝手造り令を公布しました。
新右衛門(鶴翁)は少年時代と晩年に減造令を、壮年時代に勝手造り令と三度の酒造統制令にあいました。

第一回目は天明の飢饉による減造令(天明六年:1786~寛政七年:1895)です。幕府は木村兼葭堂が営む坪井屋を過剰醸造のため廃業においこみました。

第二回目は文化・文政年間(1804~1817)の勝手造り令です。勝手造り令は酒造業者間の過当競争を引き起こしました。そのため、攝泉十二郷酒造仲間(組合)は江戸向け輸出に自主規制をおこないました。しかし、幕府は勝手造り令違反として攝泉十二郷酒造仲間の触頭・吹田屋与三兵衛及び七郷の大行司を逮捕しました。触頭の吹田屋は死罪、七郷太行司は罰金が申し付けられました。

第三回目は天保の大飢饉による減造令で十年間続きました。しかも幕府権力を背景とする江戸酒問屋は地方の酒造家を支配し、系列化する策動がおこなわれ、江戸酒問屋の売掛金未払い問題が発生していました。

このような情勢は酒造家の衰退をもたらし、特に大坂、伊丹などの酒造家の廃業や倒産をもたらしました。この体験は煎茶人鶴翁の思想と行動に大きな影響をあたえました。天保四年(1832)から十年間にわたる長期の減造令のため、多くの倒産をひきおこし、酒造株制度が崩壊してしまいました。
なお減造令は酒造株を基準にしておこないました。

(2)酒造株
西宮の四井家に「酒造株帳写 文政九年六月」がありました。その中には田中新右衛門について次のように記載されています。

文化元子年造米書上高
一七五〇石
元株主  浜之町真宣屋喜平次
当時株主 田中新右衛門
一二五〇石 
大坂小西町 田中新右衛門
(原本一冊西宮四井家文書)

つまり、文化元年(1804)、西宮・浜之町の真宣屋喜平次の酒造株1750石を大坂・小西町の田中新右衛門が買い取ったこと。田中新右衛門従来の酒造株1250石と買い取った1750石を合わせて3000石になったことが読み取れます。

(3)新右衛門の洞察力
幕府の酒造統制により、多くの酒造家が廃業、休業においこまれました。また勝手造令によって酒造株を持たない酒造家が出現し、酒造株が有名無実化しました。そのなかで新右衛門は酒造株を3000石高に増株しました。その結果、天保年間の減造令のうち、最悪の二分の一造り令の場合でも、従前の田中屋酒造株の1250石高以上を醸造することができ、経営を維持しました。

西宮が江戸向けなどの諸国向け輸出の樽廻船の積出港であったので、運送などの間接経費を削減できます。
銘柄の「戎鯛」の「戎(えびす)」は、西宮神社のえびす様のことです。西宮神社は全国に3500社あると言われているえびす様の総本山です。これは全国的なブランドを確保したと言えるでしょう。
また、「新酒番船」レースの開催が大坂と西宮の二港からの出発が、文化二年に西宮からの出航のみに変更となりました。一番船は最高の酒価額を決定でき、また一年間、荷役を優先できるというメリットがあります。そして、文化三年に幕府は勝手造り令を発布しました。

このように自由競争に打ち勝つための情報収集力にたけていたことがわかります。新右衛門は16才で田中屋を引き継ぎ、23才で自らの酒造株の倍増株を買い取る決断をしました。田中屋の存亡をかけた決断の背景には、ブレーンを含めた洞察力と決断力があったと思います。

※「新酒番船」:大坂樽廻船問屋の八軒と西宮樽廻船問屋の六軒が一艘ずつだして、江戸までの競争をおこなうことです。

聞中浄復の遺品

鶴翁師は天保六年(1835)九月十三日に邦福寺で、聞中禅師の七回忌法要を催しました。
その茶会に売茶翁(二品)、大典禅師(一品)、聞中禅師(七品)の遺品が陳列されました。その中の聞中禅師の「水屋坪」は形見分けの品であると思われます。
雑誌「三重の古文化」に聞中禅師の経歴と形見分けの明細が記載されています。これは聞中禅師の妹の孫が書き記したものです。その中に「大坂新右衛門水鉢とかえる(緞子表具聞中筆茶の事認め申し候かけ物)」と記載されています。このことから聞中禅師の掛け軸と水鉢と変えたと思われます。
そして、この水鉢と七回忌法要の水屋坪は同等のものと思われます。

蓮月既望煎茶式

蓮月既望煎茶式は鶴翁が考案しました。

天保六年(1835)江戸から来た大里浩庵(有年)が「浪華煎茶大人集」を著わし、その中で蓮月既望煎茶式を紹介しています。

10.浪華煎茶大人集10

花月菴翁 姓は田中 茶名は毛孔と呼べり。

  売茶翁より煎茶の脈絡をひきて三代に至れり。

  高翁が手馴れし茶道具をつたへ、

  その外、隠元禅師明朝より持来りし煎茶の古器を蔵せり。

  又、翁が死生の日十六日なれば、蓮月既望煎茶を施せり。

  又、三月六日陸羽忌と称して新茶を手製し供する事、花翁より起れり。

  浪速の宗匠なり。俗称新右衛門と云て、九之助橋浜手に居宅あり。」

 

蓮月とは七月、既望とは十六日という意味で売茶翁の命日にあたります。

鶴翁がこの蓮月既望煎茶式をいつ頃考案したかは定かではありません。

ただし、文政七年(1824)鶴翁は「茶売詞」を著わし、そのなかで結社を呼び掛けています。

この時期までに鶴翁は蓮月既望煎茶式を考案したことが想定できます。

 

蓮月既望煎茶式の内容は、天保六年(1835)聞中禅師七回忌法要の「茶器録」に見ることが出来ます。

これは現在の花月菴流の煎茶式の道具立てとほぼ同一です。

鶴翁

鶴翁は天保九年(一八三八)四月、一条忠香公のお召に応じ茶を献じました。

頭に芙蓉巾(心越禅師所用)をかぶり、鶴氅衣(売茶翁所用)を着て茶具を荷い、庭で伶人奏楽のなか忠香公を始め諸公に茶を献じました。

鶴翁が茶具を荷い、庭を逍遥するさまは「鶴が舞うが如し」とのお言葉を忠香公から賜り、「鶴舞千年樹」の染筆を下賜されました。また次の一首と「鶴翁」の名を賜りました。

 

千世萬はなと月とに汲そへよ

つるの翁のかめをあつめて

 

同年九月、忠香公より再度のお召に応じて茶を献じました。

この時「紫の巻」と題する染筆を賜りました。

 

煎茶といへるはいにしへよりもてはやせり

今難波の花月菴はむかし遊外翁の伝へを得て

茶どうの式をうかつ清雅にして艶なり

天下の妙といふべしちゃを好めるもの

この規短によるへし殊勝のあまり

 鶴翁へ

茗にしなふ難波の人の汲茶には

よしとて花も月籠りて

 

鶴翁の生前には、自ら「鶴翁」の号を用いた文献を確認することができませんでした。

花月菴鶴翁の煎茶道

1.茶系

  茶系

 

 

 

 

2.茶風

  売茶翁の茶禅一如

陸羽 → 倹徳

廬仝 → 清風、通仙

達磨 → 達磨の教えへの回帰

 

3.茶法

蓮月既望煎茶式 → 点前の順序

茶話清談

 

4.門人

庶民 → 職人、婦女子