蓮月既望煎茶式

蓮月既望煎茶式は鶴翁が考案しました。

天保六年(1835)江戸から来た大里浩庵(有年)が「浪華煎茶大人集」を著わし、その中で蓮月既望煎茶式を紹介しています。

10.浪華煎茶大人集10

花月菴翁 姓は田中 茶名は毛孔と呼べり。

  売茶翁より煎茶の脈絡をひきて三代に至れり。

  高翁が手馴れし茶道具をつたへ、

  その外、隠元禅師明朝より持来りし煎茶の古器を蔵せり。

  又、翁が死生の日十六日なれば、蓮月既望煎茶を施せり。

  又、三月六日陸羽忌と称して新茶を手製し供する事、花翁より起れり。

  浪速の宗匠なり。俗称新右衛門と云て、九之助橋浜手に居宅あり。」

 

蓮月とは七月、既望とは十六日という意味で売茶翁の命日にあたります。

鶴翁がこの蓮月既望煎茶式をいつ頃考案したかは定かではありません。

ただし、文政七年(1824)鶴翁は「茶売詞」を著わし、そのなかで結社を呼び掛けています。

この時期までに鶴翁は蓮月既望煎茶式を考案したことが想定できます。

 

蓮月既望煎茶式の内容は、天保六年(1835)聞中禅師七回忌法要の「茶器録」に見ることが出来ます。

これは現在の花月菴流の煎茶式の道具立てとほぼ同一です。

花月菴鶴翁の煎茶道

1.茶系

  茶系

 

 

 

 

2.茶風

  売茶翁の茶禅一如

陸羽 → 倹徳

廬仝 → 清風、通仙

達磨 → 達磨の教えへの回帰

 

3.茶法

蓮月既望煎茶式 → 点前の順序

茶話清談

 

4.門人

庶民 → 職人、婦女子

戎鯛

田中屋の銘柄は「浪華清水」「菊之清水」「鶴」「戎鯛」です。

文政六年(1823)の「続浪華郷友録」によれば、銘柄はかつて「浪華清水」であったが、以後は「菊之清水」にしたことが記述されています。

また「鶴」については文政七年(1824)、花月菴を訪れた頼山陽が次のように記述しています。「余が酒戸(量)の進むこと、この酒(鶴)より始まる」(「頼山陽全傳」)。

戎鯛看板(花月菴蔵)「戎鯛」は文化元年(1804)に西宮の真宣屋喜平次から1,750石株を買い取った銘柄です。「戎鯛」の看板が花月菴に現存しています。

この看板では「西宮 田中新右衛門」と記載されています。これは田中屋の醸造場所が大阪と西宮にあったことが推測されます。そして田中屋は大坂の伝統的な足踏み精米と、西宮の河川を利用した水車精米を擁していたことが推測されます。

また、「売方一手」として「中井新右衛門」が記載されています。中井屋が新たに看板を制作したことは、田中屋の地元酒問屋が中井屋かもしれません。

「戎鯛」は江戸向けにも販売されていました。

文化五年(1808)、大坂酒造仲間の総会に真宣屋喜平次の名前があります。この総会では江戸向け船積みの調整をすることが決議されています。

酒造りと煎茶人鶴翁

酒造りは米と水と麹を主原料とし、自然発酵の作用を応用して造られます。酒造技師を杜氏といい、当時は農閑期を利用した農民でした。

酒の風味を五味といい「甘」「酸」「辛」「苦」「渋」があり、これらが調和して「こく」が生まれるといわれています。
 
五十年間、酒造りに携わってきた杜氏は「未だ満足のいく酒を造れない。酒は生きものであり、天地の恵みより賜ったものである」といっています。
酒造りでは厳粛な神事を二度おこないます。最初の神事は蔵元(酒造家)が神主を招いて、邸内の神社に安全成就を祈願し、一同にお祓いをします。そして祝詞をあげて井戸や醸造所内の要所にお祓いをします。もう一つの神事は本仕込に入る前におこないます。
 
このような酒造りの心は煎茶人鶴翁に大きな影響をあたえました。
 
 

 

幕府の酒造統制 4

天保年間の減造令
 
「天保の大飢饉による幕府の減造令は天保元年(1830)、三分の一造りからはじまりました。四、五年も三分の一造り、七年から十年まで三分の一造り、十一年は二分の一造り、十二、十三年は三分の二造りである」(柚木重三「灘酒経済史研究」)。
 
十年間にわたる減造令によって、多くの酒造家が廃業、休業においこまれました。その中で田中屋が経営の危機を乗り切った要因は新右衛門(鶴翁)の洞察力と決断によります。それは勝手造令によって酒造株を持たない酒造家が出現し、酒造株が有名無実化した中で、新右衛門(鶴翁)は酒造株を3,000石高に増株しました。その結果、天保年間の減造令のうち、最悪の二分の一造り令の場合でも、従前の田中屋酒造株の1,250石高以上を醸造することができました(「西宮、四井家文書」)。