幕府の酒造統制 3

文化・文政年間の勝手造り令
 
勝手造り令は文化三年(1806)から文政十二年(1829)まで二十三年間おこなわれました。
この勝手造り令は酒造家だけでなく、酒造株を持たない一般人にも認められたことでした。その結果、大坂、伊丹などの都市型酒造家と灘などの在郷型酒造家との対立をもたらしました。
都市型酒造業は足踏み精米をおこなっていました。これに対して灘などは、六甲山麓から流れる河川を利用した水車精米をおこなっていました。
 
酒造株を持たない酒造家の増大と生産性の高い水車精米は、酒の販売価格の下落をもたらしました。特に江戸向け価格の下落を防ぐために、大坂、伊丹などは江戸向けの船積み調整することをはたらきかけました。
ようやく文政七年(1824)、摂泉十二郷酒造仲間(連合)は江戸向け船積み調整を決定しました。しかし幕府は勝手造令違反として、七つの地域酒造仲間大行司を逮捕しました。十二郷の代表で大坂大行司の吹田屋与三兵衛は獄死し、他の六郷大行司は罰金刑に処せられました(「伊丹市史」)。
 
この勝手造り令により、酒造株の制度が有名無実化となりました。

幕府の酒造統制 2

天明・寛政年間の減造令
 
天明・寛政年間の減造令が、最初の減造令で天明の大飢饉によるものである。
 
 天明六年(1786)         二分の一造り
 天明七、八年(1787-1788)   三分の一造り
 寛政元年(1789)          天明六年以前醸造高の三分の一造り
 寛政三、四年(1791-1792)   天明六年以前醸造高の三分の一造り
 寛政七年(1795)          天明六年以前醸造高の三分の二造り
                          (柚木重三「灘酒経済史研究」)
 
幕府は減造令違反に対して厳しい取締りをおこないました。
寛政二年(1790)三月、木村蒹葭堂巽斎が経営する酒造業坪井屋は、過醸違反で廃業においこまれた。醸造権、酒造道具の没収、支配人は三郷所払い、当主、蒹葭堂は町年寄を召上げられました(「木村兼葭堂年譜略」)。
天明・寛政年間の減造令は多くの酒造家を倒産や廃業に追いこみました。大坂の酒造家は、延享五年(1748)に646軒ありましたが、文化三年(1806)には309軒となってしまいました。
 
 

 

幕府の酒造統制 1

江戸時代は米が経済の中心のため、米を主原料とする酒造業は米価調整の要になっていました。そのため幕府の厳しい統制下にありました。
不作続きで米価が高騰すると幕府は酒造家に減造令を命じ、また豊作で米価が下落すると勝手造り令を命じました。新右衛門(鶴翁)は少年時代と晩年に減造令を、壮年時代に勝手造り令を経験しました。
 
少年時代の減造令は天明の大飢饉で、天明・寛政年間に十年続きました。幕府の取り締まりは厳しく、新右衛門(鶴翁)が後に深くかかわる木村兼葭堂の坪井屋は減造令違反で廃業を命じられました。
 
文化・文政年間の勝手造り令は経営の発展の時期でした。新右衛門(鶴翁)は、酒造株を1,750石を増株し、合計3,000石としました。しかし幕府は酒造株を持たない者にも酒造りを認めたため、灘などの在郷型酒造家と大坂、伊丹などの酒造家との競合、対立が激化しました。組合組織である摂泉十二郷酒造仲間は自主生産、特に江戸向け船積み規制をするように働きかけましたがまとまりませんでした。ようやく文政七年(1824)に江戸向け出荷規制を決議しました。
ところが幕府は酒造仲間の幹部七名を勝手造り令違反で逮捕しました。文政九年(1826)に最高責任者である大坂の吹田屋与三兵衛は獄死し、他の幹部は罰金刑を課せられました。
 
新右衛門の晩年の減造令は天保の大飢饉で十年間続きました。しかも幕府権力を背景とする江戸酒問屋は地方の酒造家を支配し、系列化する策動がおこなわれ、江戸酒問屋の売掛金未払い問題が発生していました。このような情勢は酒造家の衰退をもたらし、特に大坂、伊丹などの酒造家の廃業や倒産をもたらしました。この体験は煎茶人鶴翁の思想と行動に大きな影響をあたえました。