栄西と四頭茶会

平成二十六年(2014)は栄西禅師八百年大遠諱の年に当たります。

栄西禅師は永治元年(1141)四月二十日に備中国(岡山県)に生まれました。生家は吉備津神社の神官でした。

十一歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事しました。十三歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学しました。この時に「栄西」という僧名を授かりました。その後、二十八歳と四十七歳の時、宋(中国)に留学しました。

栄西禅師は仁安三年(1168)に、天台密教を深く究めることを目的に入宋しました。しかし当時の宋では禅宗が盛んになっていたために、わずか五か月で帰国しています。

二回目の入宋は文治二年(1186)、宋から天竺(インド)へ向かうことが目的でした。しかし天竺の治安が悪く入国の許可が得られませんでした。そのため宋に滞在せざるを得なくなりました。そして天台山万年寺の虚庵懐敞という僧に会い禅を学びました。虚庵懐敞は臨済宗黄龍派第八世の禅僧です。

栄西禅師は「興禅護国論」の中で臨済禅の神髄は戒律を重んじるところにあると言っています。戒律とは日常の修行の中で僧が守るべき、道徳規範、規則のことです。それまでの日本の仏教は「鎮護国家」を課題にし、教学研究に重きをおいていました。そのため戒律は重視されていませんでした。

建久二年(1191)、栄西は臨済禅と茶種を持って宋から帰国しました。

日本における茶は嵯峨天皇(786~842)の時代から、朝廷での喫茶の習慣があった記録があります。栄西禅師が持ち帰った茶は二つあります。その一つは禅の修行と結びついた茶です。禅の修行で最も重要視されるのは座禅です。茶には座禅を妨げる眠気を払うという効能があります。

そしてもう一つは「栄誉」の茶です。「喫茶養生記」に次のような記述があります。「栄西在唐のむかし、茶を貴重すること眼のごときを見る。種々の語ありて、つぶさに注することあたわず。忠臣に給い、高僧に施す」。これは修行のための茶とは異なります。戒律を重んじる日常の中で、食事や茶を飲む作法が来客をもてなす作法に用いられたのではないでしょうか。その後、来山された貴族などを接待する際に用いられていた作法が四頭茶会へと引き継がれていきました。

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