目次
1.酒造家田中新右衛門
鶴翁は天明二年(1782)十一月十七日、大坂清水町(後、小西町、明治初年の町名)に生まれました。生家は代々酒造業田中屋を営んでいました。十六才で家業を継ぎ、父祖の名である新右衛門を襲名しました。
田中屋は大坂では大規模な経営でした。 江戸時代は米が経済の中心のため、米を主原料とする酒造業は米価調整の要になっていました。そのため幕府の厳しい統制下にありました。不作続きで米価が高騰すると幕府は酒造家に減造令を命じ、また豊作で米価が下落すると勝手造り令を命じました。
新右衛門は青少年時代と晩年に減造令を、壮年時代に勝手造り令を経験しました。この経験は、煎茶人鶴翁の思想と行動に大きな影響をあたえました。
2.茶の集散地
大坂は「天下の台所」といわれていました。大坂には米をはじめ諸国の産物が集められ、その一部は人口三十七、八万人の大坂で消費され、ほかは江戸をはじめ各地に分散されていました。茶も例外ではありません。「難波雀」によれば延宝七年(1679)に煎茶問屋が十五件成立していました。この頃、大坂の茶問屋は、伊賀、丹波、宇治、日向、肥後などの産地別でした。 大坂に集荷された茶は、製法の技術や飲茶の方法の発展によって変化していきました。
最初の流れはてん茶(抹茶)、煎じ茶(番茶)、湯びき茶(湯通し茶)、釜炒り茶が集荷されました。(元禄十年、農業全書)。 正徳年間(1711~1715)になると煎茶問屋はすでに六十四軒と急増しています。その取扱い数量は147万8千斤余で、番茶が中心でした。明治初期が400万斤ですから、当時の取引の規模が想像できます。(大坂府茶業史)。
つぎの流れは元文三年(1738)、宇治の永谷宗円が考案した蒸し製煎茶が登場したことです。この緑茶の製造は宝暦年間(1751~1764)に、まず近江の政所、信楽などの茶産地に伝わり、さらに近畿、北陸、四国、九州に拡がり、大坂に集まってきました。新右衛門(鶴翁)が生まれた天明二年(1782)の大坂では、煎茶問屋が五十軒、仲買五十軒、小売七百軒が仲間組織(連合)の設立を幕府に要請するまでになっていました。
喜田川守貞の 「守貞漫稿」によれば、大坂で茶見世が現れるのは不明だが、有名な社寺の門前や京都や堺への街道などにあらわれました。大坂の茶漬屋は元禄以後(1703年)で、道頓堀、新町にあると記しています。やがて宝暦年間の頃、料理茶屋があらわれ、客の待合いで煎茶がもてなしとしてだされるようになりました。
また当初黄檗派では寺院内で普茶(釜炒り茶)を嗜んでいましたが、幕府の寺檀制度によって檀家で法事が盛んになると、檀家が僧侶に普茶饗応するようになりました(「異国風料理)。
3.師との出会い
若い頃から新右衛門(鶴翁)は隣家の女医の三宅文昌や小祇林庵の観掌尼から売茶翁の茶風を学びました。また売茶翁に随侍した聞中浄復から売茶翁の茶風ばかりでなく、禅や絵画も学びました。
小祇林庵の観掌尼は三宅文昌の母で。売茶翁の弟子です。そして売茶翁の没後、遺品を多数もらいうけていました。後にその遺品は鶴翁に贈られました。 鶴翁は聞中淨復から大典顕常が著わした「茶経詳説」、廬仝の「茶歌」、売茶翁の「売茶翁偈語」などを学びました。このことは鶴翁の著書や雅号からうかがえます。聞中淨復は新右衛門に「 三種亭其行」の雅号を授けました。
4.月例茶会
鶴翁は毎月十六日に茶会を催していました。この茶会は文化10年(1813)以後におこなわれていたと思われます。
文政七年の「茶売詞」に
月毎の十六日は翁(売茶翁)の為に茶を煎じ人々に喫せしむる事年久し
とあります。
また、畑銀鶏の「銀鶏雑記」には次のように記してあります。
諸人に茶をふるまえて、時分時には握飯と煮しめを添えて出す
煎茶をいごすおりには菓子をぜんにのせて毎々へ配る
この茶会の初期には幕府の役人、田中屋の取引先の主人、木村石居、篠崎小竹夫人などが参加していました。(「続浪華郷友録」)
この頃、大坂では木村兼葭堂石居も月例二十五日茶会を催していました。二十五日は養父の兼葭堂巽斎の命日にあたります。この茶会には鶴翁はじめ篠崎小竹、岡田半江、八木巽処らが参加していました。
5.「売茶翁茶器図」
この二つの月例茶会から、文政六年(1823)に「売茶翁茶器図」が刊行されました。売茶翁所用の茶具が三十三品が掲載され、木村孔陽(石居)がこの図を改写しました。
当時の所蔵者は十三品に兼葭堂、四品に花月菴が記載されています。 由来書ないし箱書には聞中浄復、花月菴素徳(鶴翁)、三宅成章(花月菴の隣家)が記述しています。なお「売茶翁茶器図」の版木は花月菴で所蔵しているので、刊行にあたっては鶴翁が直接かかわったこと思われます。
6.花月菴への来訪者
花月菴には多くの文人墨客が訪れてきました。特に江戸からきた文人たちは、売茶翁の流れを汲んだ花月菴流煎茶に強い関心をもったことがうかがえます。
文政六年(1923)三月には、文人画家の田能村竹田が花月菴を訪れています。竹田は肥後から上方にのぼるたびに、花月菴を訪ねたことを日記や随筆に書きとめています。
史家であり漢詩人の頼山陽は篠崎小竹を同伴し、文政七年(1824)に来訪しました。その返礼として鶴翁に「竹枝詩」を贈っています。
鶴翁は文政七年から、陶工の青木木米に種々の茶器の制作を依頼しています。鶴翁への木米の手紙がたくさん残っています。それには花月菴を訪問したことが記してあります。
庭造家の離島秋里は文政十一年(1828)に「築山庭造傅」を著わし、その中で「花月菴玉川庭之図」を描き、その情景を記述しています。なお玉川庭の玉川は廬仝の雅号である玉川子から引用しています。
文政十年、江戸の詩人大窪詩佛は来訪し、上述の「花月菴玉川庭之図」に一詩を添えています。天保三年(1832)、鶴翁が江戸に下った時、詩佛宅を訪ね、また綾瀬川の茶会に招いています。
江戸の平亭(畑)銀鶏は天保五年(1834)から一年間、大坂城に在勤し、「街能噂」や「銀鶏雑記」を著わし、花月菴の月例茶会を伝えています。
江戸の大里有年(浩菴隠士豊)は天保六年に「浪華煎茶大人集」を著わしました。鶴翁をはじめ売茶翁の流れを汲む二十二名の人物像を描き略伝を記述しています。
7.鶴翁の茶風
鶴翁は在世中、「毛孔」と「素徳」を多く名のっています。ちなみに鶴翁は没後、用いられるようになりました。
毛孔は廬仝の「茶歌」の一節を引用したもので、素徳は平素徳をつむことです。 鶴翁は文政七年に著わした「茶売詞」の中で次のように記述しています。
瓦炉の松風に浮世の塵を払い
急須の波涛に曲肱の夢をさまし
人士の垢を洗ひて
淡味を甘し、清香を楽しみ
神仏の霊場には一瓶を供することになむ
8.流儀煎茶
文政七年(1824)、鶴翁は三種亭其行の名で「茶売詞」を著わしました。冒頭、売茶翁の漢詩を掲げました。
晴天の日 新たな茶店を開く 茶煙松林に満ち
清風、茶旗はためく 誰ぞ能く認め来るところを識らず
鶴翁はこの詩で「松風清社」結社の意図を表わしました。さらに
諸君子時に来たりて茶話清談し、一碗をも啜りたまへ
と呼びかけています。
鶴翁は我が国で最初の流儀煎茶をおこし、「清風流烹茶諸式詳解」を著わしました。点前を真、行、草にわけ、食事付として茶事を記述しています。 また「蓮月既望煎茶式」を考案しました。蓮月既望とは七月十六日のことで、売茶翁の命日にあたります。この煎茶式の茶器録が残っています。
9.花月菴門人
門人は道具職の杉村又吉(生白菴)、陶工の佐竹長楽(北園斎)、茶舗主の多喜半右衛門(売中)、古手織職の林梅林など(「浪華煎茶大人集」)が記録されています。また、女性の名前も記載されています。(「花月菴茶記録」)
さらに天保年間には「諸国門人多シ」(「浪華風流繁昌記」)という記録があります。
そして、高弟の生白菴は天保六年に独立をしていています。鶴翁は「松風起社」を授け、一詩を贈っています。
隠居?の成就あり鶴まつかぜを
ち世も八千代もおこす芽出度さ
10.茶会
天保年間にはいると、鶴翁は積極的に対外活動を展開しています。しかも将軍、藩主、公家、門跡から招かれています。ちなみに鶴翁は剃髪していたので、士農工商の身分制はお構いなしであったようです。
天保三年(1832)五月には、江戸にくだり、江戸郊外の綾瀬川で茶会を催しました。二、三の舟を浮かべ、大窪詩佛、画家の谷文晃、国学者の平田篤胤など数十名を招いています。ここは合歓(ねむ)の木の名所でした。鶴翁は次のように詠んでいます。
あつま路にかほる木の芽を煮る時の
あやに綾瀬に棚を造れる
この江戸滞在中、十一代将軍徳川家斉に献茶し、茶具一式と「清玩規」を献上しました。後年、千種有功卿を通じて、将軍家から蒔絵硯を賜りました。
檜垣真種は「浪華風流繁昌記」を著わしました。その中で、鶴翁の略伝を記述し、鶴翁が天保四年(1833)八月十五日に大坂の長柄川で茶会を開いたことを掲載しています。鶴翁がこの茶会で詠んだ手記は次のとおりです。
賀寿 天保巳の年(四年)の葉月十五夜、
舟を浮へて世に珍らかなる水を茲に満し、ものすとて
稀に得て うつせし西の湖の
みつを長柄に 汲めや風流士
かくて我輩私に この辺りを 西湖の流れと よひあへり
鶴翁は中国から取り寄せた西湖の水を川に沈めて、大坂の人々に飲ませたいという趣旨と思われます。なお賀寿は鶴翁の歌号で、香川景樹から和歌を学びました。
天保六年(1835)、鶴翁は大坂天王寺の邦福寺に急須塚を建立し、茶会を催しました。社中の人々が破損した愛用の茶器を供養するための塚です。鶴翁は次のように詠んでいます。
をしと思ふ心残りを投げ入れよ
後の迷ひのはれんとすらむ
天保九年(1838)四月、鶴翁は京都の一条忠香公の招きをうけ、献茶しました。忠香公は鶴翁に次の詩を贈りました。
千世 万世 はなと月とに汲そへよ
つるの翁のかめをあつめて
この年の九月、一条公から再度お招きをいただき茶を献じ、染筆「紫の巻」を下賜されました。 またこの九月には、紀州藩主徳川治実から招かれ献茶しました。治実公から紋服と羽織を拝領しました。
さらにこの九月に、京都の千種有功公にも招かれ献茶しています。 天保十年の春に真宗本山の興正寺門跡、またその秋には法隆寺太子殿宝前で献茶しています。
嘉永元年(1848)八月二十二日、六十八年の生涯を閉じました。京都東大谷に納骨し、墓碑は大坂の邦福寺に建立されました。
おわりに
鶴翁の茶風は「清風」です。これは廬仝、売茶翁から受継がれたものです。「清風」には二つの意味があります。
一つは「無我」です。もう一つは社会に対する批判」が込められています。 廬仝は「茶歌」のなかで、
玉川子 此の清風に乗りて 帰り去らんと欲す
安んぞ知るを得ん 百万億の 蒼生の命
堕ちて 顛崖に在りて 辛苦を受来るを
と言っています。
売茶翁は宝暦十三年(1763)の「売茶翁偈語」に高遊外自題を掲載し、自らの身分の位置付けを「廬仝正流兼達磨宗四十五傳」としています。そして「清風」の二字を書いた旗を掲げて茶売りをおこないました。
鶴翁は茶号を「毛孔」とし、「清風流烹茶諸式詳解」を著し、売茶翁の命日を記した「蓮月既望煎茶式」を考案しました。
鶴翁は唐物の茶器を収集し、自ら考案した流儀煎茶に沿った茶器を木米、道八などと協議しながら製作をしました。
このように鶴翁は売茶翁の茶法を取入れ、自らの茶法を確立させました。 煎茶人鶴翁の思想と行動は、酒造家田中新右衛門の二つの「ものづくりの心」が強く反映されています。
その一つは、酒が米と水と麹で、自然醗酵作用を応用して造られることです。その醸造の過程で二度にわたり、厳粛な神事が行われます。もう一つは、酒造りの担い手は農閑期を利用した農民の杜氏集団です。そして酒の需要者は不特定多数の大衆です。
花月菴鶴翁の思想の根底には「民草に恵み」の「清風」を送るということがあったと思われます。