喫茶養生記

栄西禅師は中国からお茶の苗木や種を持ち帰り、栽培を奨励したことで日本の「茶祖」と言われています。しかし、栄西禅師が茶を持ち帰る以前にも茶の栽培がされていました。
では、何故「茶祖」と言われるようになったのでしょうか。それは「喫茶養生記」を著わしてお茶の薬効を紹介したためです。
「喫茶養生記」は承元五年(1211)に著わされました。上下二巻からなり、上巻は「五臓和合門」といい、肝臓、肺、心臓、脾臓、腎臓の調和を保つ茶の薬効が記されています。下巻は「遣除鬼魅門」といい、五種の病をあげてその病を桑やお茶を服用して治療する方法を記しています。
建保二年(1214)二月四日の「吾妻鏡」のなかで、栄西禅師が「茶を誉むる所の書」に茶を添えて鎌倉三代将軍源実朝に献上したことが記されています。この「茶徳を誉むる所の書」が「喫茶養生記」の上巻であると言われています。これは栄西禅師が死去される一年前のことです。
「喫茶養生記」の中には、前述したように茶の薬効のみを説いており、禅の教えについては触れられてはいません。栄西禅師は喫茶の習慣を一般にも広めることで、禅の普及を考えていたのではないでしょうか。

栄西禅師の生きた時代は平氏から源氏へと権力が移行する時期でした。そして、仏教の宗派が形成される時期でした。禅宗の宗派が形成される中で、「喫茶養生記」が「茶禅一味」の思想の母体となりました。

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