栄西と臨済宗

明庵栄西(みょうあんようさい)
永治元年(1141) – 建保三年(1215)
栄西は二度目の入宗で、天台山万年寺の住職虚庵懐敞から印可を受け「明庵」という号を授かりました。懐敞は臨済宗黄龍派の高僧でした。
栄西は建久二年(1191)に帰国し、九州各地を禅宗布教のため行脚しました。そして建久六年(1195)に聖福寺を九州に開き、後鳥羽天皇から「扶桑最初禅窟」と書かれた直筆の額を賜っています。栄西の臨済禅は北九州一帯に広まりました。
その頃の京都仏教界は、比叡山延暦寺などの旧仏教勢力が支配していました。大日房能忍が開いた日本達磨宗は激しい迫害を受けていました。そしてその影響は九州にも及びました。
建久五年(1194)に朝廷は日本達磨宗と栄西の禅宗に対し「禅宗布教禁止令」を発布しました。しかし、栄西の禅に対しては、朝廷にも理解者がおり、栄西に弁明の機会が与えられました。そして、建久九年(1198)に「興禅護国論」を著し、禅宗の正当性を主張しました。「興禅護国論」は日本で最初の禅の思想書と位置付けられています。
その後、栄西は活動の場所を鎌倉に移しました。すでに建久三年に源頼朝が鎌倉幕府を開いていました。幕府も関東の武士たちも新しい宗教、文化を求めていました。栄西は鎌倉で幕府の帰依のもと禅宗の布教活動を行っていきます。そして、建仁二年(1202)栄西は二代将軍源頼家から京都の幕府直轄地をもらい受け建仁寺を開きました。
建仁寺は頼家から朝廷への申請により、比叡山延暦寺の末寺として公認され、寺院内に天台宗、密教、禅宗の三宗を置くことが許されました。京都に禅宗の道場が置かれたことは歴史的な意義がありました。臨済宗は時の武家政権に支持され、政治、文化に大きな影響を与えました。その後、室町幕府にも保護されました。
臨済宗の開宗年は栄西が中国臨済宗を伝えた建久二年とするのが一般的です。しかし栄西の禅は「臨済宗黄龍派」の流れで、栄西以降にもたらされたのは「臨済宗楊岐派」の流れです。臨済宗は一人の開祖が開いた宗派ではなく、平安末期から鎌倉、室町にかけて、複数の渡来僧、帰国僧によってもたらされた宗派の総称です。栄西を宗祖としているのは建仁寺派のみです。ちなみに、建仁寺も鎌倉時代中期に「楊岐派」の流れをくむ蘭渓道隆が住職となり、「黄龍派」の流れは途絶えています。

この臨済宗を統一させたのは江戸時代の白隠慧鶴です。、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させました。 現在ある臨済宗十四派は全て白隠を中興としています。

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