幕府の酒造統制 2

天明・寛政年間の減造令
 
天明・寛政年間の減造令が、最初の減造令で天明の大飢饉によるものである。
 
 天明六年(1786)         二分の一造り
 天明七、八年(1787-1788)   三分の一造り
 寛政元年(1789)          天明六年以前醸造高の三分の一造り
 寛政三、四年(1791-1792)   天明六年以前醸造高の三分の一造り
 寛政七年(1795)          天明六年以前醸造高の三分の二造り
                          (柚木重三「灘酒経済史研究」)
 
幕府は減造令違反に対して厳しい取締りをおこないました。
寛政二年(1790)三月、木村蒹葭堂巽斎が経営する酒造業坪井屋は、過醸違反で廃業においこまれた。醸造権、酒造道具の没収、支配人は三郷所払い、当主、蒹葭堂は町年寄を召上げられました(「木村兼葭堂年譜略」)。
天明・寛政年間の減造令は多くの酒造家を倒産や廃業に追いこみました。大坂の酒造家は、延享五年(1748)に646軒ありましたが、文化三年(1806)には309軒となってしまいました。