幕府の酒造統制 1

江戸時代は米が経済の中心のため、米を主原料とする酒造業は米価調整の要になっていました。そのため幕府の厳しい統制下にありました。
不作続きで米価が高騰すると幕府は酒造家に減造令を命じ、また豊作で米価が下落すると勝手造り令を命じました。新右衛門(鶴翁)は少年時代と晩年に減造令を、壮年時代に勝手造り令を経験しました。
 
少年時代の減造令は天明の大飢饉で、天明・寛政年間に十年続きました。幕府の取り締まりは厳しく、新右衛門(鶴翁)が後に深くかかわる木村兼葭堂の坪井屋は減造令違反で廃業を命じられました。
 
文化・文政年間の勝手造り令は経営の発展の時期でした。新右衛門(鶴翁)は、酒造株を1,750石を増株し、合計3,000石としました。しかし幕府は酒造株を持たない者にも酒造りを認めたため、灘などの在郷型酒造家と大坂、伊丹などの酒造家との競合、対立が激化しました。組合組織である摂泉十二郷酒造仲間は自主生産、特に江戸向け船積み規制をするように働きかけましたがまとまりませんでした。ようやく文政七年(1824)に江戸向け出荷規制を決議しました。
ところが幕府は酒造仲間の幹部七名を勝手造り令違反で逮捕しました。文政九年(1826)に最高責任者である大坂の吹田屋与三兵衛は獄死し、他の幹部は罰金刑を課せられました。
 
新右衛門の晩年の減造令は天保の大飢饉で十年間続きました。しかも幕府権力を背景とする江戸酒問屋は地方の酒造家を支配し、系列化する策動がおこなわれ、江戸酒問屋の売掛金未払い問題が発生していました。このような情勢は酒造家の衰退をもたらし、特に大坂、伊丹などの酒造家の廃業や倒産をもたらしました。この体験は煎茶人鶴翁の思想と行動に大きな影響をあたえました。