酒造りと煎茶人鶴翁

酒造りは米と水と麹を主原料とし、自然発酵の作用を応用して造られます。酒造技師を杜氏といい、当時は農閑期を利用した農民でした。

酒の風味を五味といい「甘」「酸」「辛」「苦」「渋」があり、これらが調和して「こく」が生まれるといわれています。
 
五十年間、酒造りに携わってきた杜氏は「未だ満足のいく酒を造れない。酒は生きものであり、天地の恵みより賜ったものである」といっています。
酒造りでは厳粛な神事を二度おこないます。最初の神事は蔵元(酒造家)が神主を招いて、邸内の神社に安全成就を祈願し、一同にお祓いをします。そして祝詞をあげて井戸や醸造所内の要所にお祓いをします。もう一つの神事は本仕込に入る前におこないます。
 
このような酒造りの心は煎茶人鶴翁に大きな影響をあたえました。
 
 

 

古道禅師

肥前佐賀の龍津寺の五代住持に古道が就任しています。彼は小祇林庵の観掌尼の長兄ではないかと推定しています。
その理由は二つあります。その一つは古道が黄檗山万福寺の蔵主に就任した時、売茶翁は古道に一首を贈っていることです(「売茶翁偈語」参照)。もう一つは上述のように売茶翁が古道に古銅風炉を贈っていることです。このことから龍津寺に深く関わっている売茶翁と大潮が古道を龍津寺五代住持に要請したと思われます。
 
 

 

幕府の酒造統制 4

天保年間の減造令
 
「天保の大飢饉による幕府の減造令は天保元年(1830)、三分の一造りからはじまりました。四、五年も三分の一造り、七年から十年まで三分の一造り、十一年は二分の一造り、十二、十三年は三分の二造りである」(柚木重三「灘酒経済史研究」)。
 
十年間にわたる減造令によって、多くの酒造家が廃業、休業においこまれました。その中で田中屋が経営の危機を乗り切った要因は新右衛門(鶴翁)の洞察力と決断によります。それは勝手造令によって酒造株を持たない酒造家が出現し、酒造株が有名無実化した中で、新右衛門(鶴翁)は酒造株を3,000石高に増株しました。その結果、天保年間の減造令のうち、最悪の二分の一造り令の場合でも、従前の田中屋酒造株の1,250石高以上を醸造することができました(「西宮、四井家文書」)。