二十五日茶会

この二十五日茶会は十六日茶会よりも先にはじめられたと思います。
 
文化10年(1813)に蒹葭堂巽斎13回忌が営まれました。
参列者についての記録は見当たりませんが、蒹葭堂と親交のあった篠崎三島、 小竹、森川竹窓と義弟の八木巽處、岡田米山人、半江などが参列したと思われます。
 
また、蒹葭堂と長年親交のあった聞中浄復禅師が、この頃京都に定住したので、石居は聞中を招いたのではないでしょうか。
 
この様な状況から文化10年頃から、二十五日茶会がはじまったと思われます。
鶴翁はこの二十五日茶会を通して、売茶翁の茶風を習得したのではないでしょうか。
 

十六日茶会

「月毎の十六日は翁の為に茶を煎し人々に喫せしむる事年久し」と文政七年(1824)に鶴翁が著わした「茶売り詞」に記載がありますが、いつ頃からこの茶会がはじまったのでしょうか。

文政元年(1818)に篠崎小竹が子息を伴って花月菴を訪問した記載が「頼山陽全伝」にあります。また、小竹夫人の佐智子は「煎茶大人集」にも記載されています。
これらのことから、文政元年頃から十六日茶会がはじまったと推測されます。
そして、この十六日茶会が文政七年の松風清社の設立につながっていきます。
ちなみに、鶴翁は後世に高弟の生白庵(杉村又吉)が独立するにあたり、「松風起社」を授けています。
 

この十六日茶会では、握飯に煮しめを添えて出し、煎茶を出す折には菓子をぜんに乗せて出していたことが、畑銀鶏の「銀鶏雑記」に記載されています。 

二つの月例茶会

二つの月例茶会とは鶴翁が催した月例十六日茶会と、木村石居が催した月例二十五日茶会のことです。
 
鶴翁は二十五日茶会で売茶翁の茶風を習得し、十六日茶会で自らの茶風、茶法を確立しました。
 
鶴翁の十六日茶会は高遊外売茶翁の月命日にあたり、また木村石居の月例二十五日茶会は石居の養父蒹葭堂巽齋の月命日にあたります。
鶴翁は師の聞中淨復禅師から授かった三種亭其行の名で、文政七年(一八二四)晩春に「茶売り詞」を著わし、月例茶会について次のように述べています。
 
「翁の道徳を尊み、故ありてかたはかりの茅宇を結ひて花月菴と號け、
 翁の真像を安置し、月毎の十六日は翁の為に茶を煎し人々に喫せしむる事
 年久し」
 

畑銀鶏は天保五年の「銀鶏雑記」に田中新右衛門について次のように記述しています。

「島ノ内東堀清水町 酒造
 毎月十六日會日 花月菴素徳
 此ノ仁より決まり候て、兼葭堂へ参りべき旨、毎月廿五日會日」

蒹葭堂の二十五日茶会は鶴翁の発案と思われます。