煎茶の普及2

寛文末年から延宝年間はじめ(1675年前後)の頃、河内(大阪府)の庄屋が日記で煎茶の普及を次のように伝えています。

「近年、町でも村でも昼も夜もなく大変な流行をみせている「せんじ茶」は、寛永の末、正保の頃(1640~46)まではほとんどなかった。いつも抹茶を用いていた」。
 
煎茶の大坂の入荷量は正徳四年(1714)、一四七万八千斤、銀1,460貫にのぼりました。明治初期の大坂入荷量が約四〇〇万斤ですから、当時の煎茶の消費量がうかがえます。
元文三年(1738)、永谷宗円が蒸し製煎茶を考案し、全国で生産されるようになりました。
鶴翁が生まれた天明二年(1782)、大坂では問屋株が五十軒、仲買株五十軒、小売株(葉茶屋)が七百軒あり、庶民の家庭で日常的に煎茶が飲まれ、また町人の社交的な手段として茶会が盛んに開かれていました(「大阪府茶業史」)。
 
 

 

煎茶の普及1

 

徳川幕府の成立後は商品貨幣経済が急速に進展するようになりました。
米をはじめ諸国の産品が大坂に集められて換金され、その商品は江戸や各地に売りさばかれていきました。
天下の台所といわれる大坂には早くから葉茶を扱う煎茶問屋が成立していました。すでに延宝七年(1679)には諸国別の煎茶問屋が十五軒ありました。伊賀が二軒、丹波二軒、宇治田原二軒、下市四軒、日向四軒、肥後一軒です。このことは茶が寺院生産から農村生産に移り、農民は租税として物納し、藩が商品として市場にだしたことを意味します。
特に注目すべきことは九州の日向茶や肥後茶の青柳式の釜炒り茶が大坂に移入され、商品として出されていたことです。