小祇林庵の観掌尼

田能村竹田は文政六年(1823) 三月二十七日、大坂在住で同郷の河合同斎に伴われ、花月菴を訪ねた。「竹田日記」は次のように記述している。
 
「売茶翁の弟子に三人の兄弟あり、兄を古道といふ、黄檗山の蔵主となる、次を無参といふ、一生飄然無住にして死す、末は女子にて尼となる、また観る所あり観掌といふ、茶臼山の側小祇林に住す、大坂の医人三宅文昌はこの三人の肉姪にて今年七十四五才斗なり、文昌の左隣に田中屋あり茶を嗜む、予此人と今年三月二十七日始めて相知る、其花月亭にて茶を喫す」
 
「小祇林に売茶翁の九條褐色の布袈裟を蔵す、其外掛物三幅、硯箱壱つ、鉄槌壱つ。三宅文昌の宅に翁の茶を売る店の旗を蔵す、清風の二字を書す、また掛物六七幅斗あり、田中屋に翁の掛物三幅並に茶壷三、古銅風炉及雑具六、七種を蔵す、多く小祇林より出ず、ただ古銅風炉ハ古道蔵主より伝来すといふ」
(「田能村竹田と花月菴鶴翁の出会い」)
 
 

 

綾瀬川の茶会 4

この茶会は鶴翁の茶風を表しています。

鶴翁の意図は、存亡をかけて対立していた人々を招き、茶会を開いて信頼の回復を図ることでした。

商取引の基本は信用です。江戸の酒問屋は浦賀奉行(※)の権力を背景として、諸国の酒造家を系列化(支配化)する策動をしていました。それは信用取引を権力で屈服させようとしたことです。

鶴翁は礼をつくすことにより、信頼の回復を図りました。これは浪華の人々の「粋」を表現した方法かもしれません。

なお、鶴翁はこの江戸滞在中、十一代将軍徳川家斉に献茶し、茶具一式と「清玩規」を献上しました。

天保九年(1838)十月千種有功卿を通じて、将軍家より献茶の嘉賞として蒔絵硯筥を下賜されました。

  ※浦賀奉行の役務は江戸湾に入る船舶の監視、積み荷の検査、民政裁判等です。