求道の旅人 聞中浄復 3

聞中は伊藤若冲の書雁を学び、紙一枚ずつ寫すことを日課としました。

そして、そのことを大典に許しを請いました。

大典は手紙で答えました。

「吾人佛徒には重要な一大事がある、それが為には爪を剪るに遑もないはずである。文学の如きも固より本務ではないが、道を資するため、性の近き所、才の能くする所を以て、緒餘の之を修むに過ぎぬ、その他の芸術は、法道に於いて何の所益がある、父母が汝に出家を許し、師長が教誡して汝を導き、檀越が汝に衣盂の資を供給する等の本意は那邊に在るか、宜しく考慮せよ、余の許不許の関する譯ではない… 」

求道の旅人 聞中浄復 2

中浄復が大典顕常に師事したのは、宝暦八年(1758)二十歳の時でした。

その翌年、大典の第一詩集「昨非集」に跋文を書いています。

この詩集は大坂の木村兼葭堂が版行しました。大典は後年、聞中について次のように記しています。

「・・・余少きより唐詩の好あり、我と好を同ふして、能く之を得る者は其れ聞中か、聞中の詩に於ける、出すに唐を以てせざるなく、亦た唐たらざるを屑しとせず・・・」(『小雲雲稿』の十「題聞中詩稿後」)

花月菴鶴斎

鶴翁が「鶴斎」の号を名乗っていたことが、「梅?日記」に記載されています。

「九月一日、朝の内、久太郎、後藤、田中屋(花月菴鶴斎)へ行」

梅?は頼山陽の母の雅号です。久太郎は頼山陽、後藤は頼山陽の大坂の門弟、後藤松陰です。頼山陽は文政七年(一八二四)九月一日に再度花月菴を訪ねています。最初の花月菴訪問は、文政七年四月二十三日(六月二十四日説、「頼山陽全傳」)篠崎小竹と同行しています。

頼山陽は花月菴のもてなしの返礼として、「赤関竹枝」と題した七絶を送っています。

鶴翁が「鶴斎」の号を名乗った理由は定かではありませんが、当時次のような歌を詠んでいます。

年のはしめに丹頂の鶴の羽の僕が懐に入りしは、いかなるさちにかとささろめでたきこの明方に、千とせの壽をも受得し心地してうれしさのあまり

朝戸出につるの毛衣身に添ひて

千代経ん敷の初日影かや

ちなみに、頼山陽は江戸時代後期の漢詩人、歴史家です。「日本外史」を著わしたことで有名です。