綾瀬川の茶会 1

天保三年(1832)五月二十九日、鶴翁は江戸郊外の綾瀬川で二、三の舟を浮かべ数十名の茶会を開きました。国学者の平田篤胤、画家の谷文晁、漢詩人の大窪詩佛を招いています。

鶴翁はなぜ江戸郊外の川で舟を浮かべて茶会を行ったのでしょうか。

それは、この年の三月から江戸市中では米価の高騰で、不穏な状況が続いていて、先手組(※)が厳重な警戒にあたっていたためです(「江戸年表」)。

※先手組は江戸の治安維持の役割を担っていました。先手組の頭は火付盗賊改方の長官を兼務していました。

 

三種亭其行

鶴翁は師事した聞中浄復禅師から「三種亭其行」を授かりました。文政七年(一八二四)三種亭其行の名前で「茶売り詞」を著わしました。

三種亭其行の名前の由来については詳らかではありませんが、聞中禅師は達磨大師の教え「三種安楽の法門」を鶴翁に伝えたと推測します。

その教えは『三つとは、「唯浄(ゆいじょう)」「唯善(ゆいぜん)」「徐緩(じょかん)」です。「唯浄」とは清浄心を自分の心にせよ。「唯善」は腹をたてない。「徐緩」はゆっくり落ちつくことです。この三つを心がけることで、安楽、しあわせになるという教えです』(「臨済・黄檗宗公式サイト」)

売茶翁は終焉にあたり「達磨宗第四十五傳」といっているように「達磨への回帰」を述べています。このように売茶翁を崇敬した聞中禅師は、鶴翁の雅号で達磨の教えを伝えたのだと思います。

 

 

毛孔と素徳(2)

鶴翁が平素、主に呼称していたのは「素徳」です。すでに文政五年(1822)、三宅成章は「茶旗の由来」の中で「田中君素徳に茶旗を贈る」と記述しています。

素徳とは「平素徳をつむ」、「清く正しい行いをする」という意味です。禅宗では「素徳清規」という成句があります。両者は同義語であるとのことです。清規とは禅宗の僧侶の生活規則で、臨済宗では「百丈清規」、黄檗宗では「黄檗清規」があります。

鶴翁が「素徳」を用いていた理由は、聞中浄復禅師の師匠である大典顕常禅師が著わした「茶経詳説」を学んだ結果と思われます。「茶経詳説」は陸羽の「茶経」の解説書です。陸羽は「茶経」の中で、「茶は行いにすぐれ倹徳のある人がのむのにもっともふさわしい」と記しています。鶴翁は「倹徳」となるために、まず「素徳」を用いたのではないかと思われます。

鶴翁は茶事では日頃の不平、不満を軽き汗とともに「毛孔」から発散させ、無我の世界に入ること。そして、日常生活では「素徳」、清く正しい行いを心がけていたのではないのでしょうか。